楽な心で生きやすく
こんにちは!
考察も好きなココロです。
このページでは
「楽に生きてく方法」
について少しまじめに考えてみました。
この記事を書く目的は神様に頼るしかないくらいどん底を経験して、 そんな中からでも 「幸せ」 になりたくて 「じゃ、どうすれば?」 という方法などを情報や経験を通して学んだ、あるいは学んでいこうと考察したことをアウトプットした 「ココロなりのまとめ」 です。
ざっくりと要約すると、
透明なガラスのコップの中に
水が半分はいっています
半分 “しか” 入っていない
と考えるでしょうか?
それとも、
半分 “も” 入っている
と考えるでしょうか?
この昔から広く知られている例えについて考察していくページです。
※ 本ページはプロモーションを
含んでいます
1つの物事に対して2つの見方のあるこの考え方、
「0と1の織り成す1つの絵画」
「この世の仕組み」
「有から無へと歩むのか」
「無から有へと歩むのか」
もしかしたら…
100と0
1と0
有と無
といったような哲学的な要素に繋がっているのかもしれない、と。
(なんとなくです)
この考えを基に実際に実践してみてよかったと体験できたことは、
100から50をみる(不足)
という視座から、
0から50をみる(充足)
へと考え方はシフトできたことで日々の少しずつの時間を活用していく際に楽になったことです。 気持ち(心)も楽になりました。
私の場合はスコトーマ(心理的盲点)も働いて認識できていなかったのでしょう、きっと。 以前にも同じ情報を得ていたはずなのにスコトーマの発生のせいか情報不足だったのかその時は 「気づく」 ことはできませんでした。
気づいてみると 「考え方1つで楽になるなぁ…」 と実感しています。 もう一方の考え方に納得できたことによって今は楽に進めるようになっています。
(スコトーマについては 「光透目録」 にまとめてみました)
やりたいことはたくさんあるけれど、なんとなく進みづらいと感じておられる方に僅かばかりでも参考になれば幸いです。
「無の証明はできない」
「終わりなき永遠の証明は涙」
「終わりある一瞬の証明は命」
コップに入っている半分の水。
「半分ある状態」 を見て
「半分しかない」 と考えるのか…
「半分もある」 と考えるのか…
それは、
100の状態から今を考えるのか
0の状態から今を考えるのか
100 → 50 なのか
0 → 50 なのか
つまりは100から考えるのか、
0から考えるのか、ということだと思います。
パーセンテージで考えると
100%から見て
半分(50%)を不足と考えるか、
0%から見て
半分(50%)を充足と考えるか。
私はこれまで常に100%の状態 から考えていました。 おそらく無意識的になんでも100%の状態から。 完璧主義なところがあるのも自覚しています。 100%なんて無いものと同じなのに完璧の状態から減点方式。
「だから何をしても満たされなかったのかもしれない」
ということに気づけたことは大きいと実感しています。 常に不足から考えていました。 0%から見たら水は半分もあるのにいつも100%から見て 「不足だ」 と。 0%から見ればたった1%だって+ですしその方向です。 だけど100%から見るといくら99%だとしても-ですしその方向となってしまいます。 様々な情報に触れていく中で改めてこの例え話を考えると0%から考えていくほうが楽になるんじゃないかと思いました。
この水とコップの話の例え話は以前から知っていました。 しかし当初は、
「単なる考え方の話で意味はない」
なんて思いっきりスルーしていました。 自分の中に情報が足りなかっただけかもしれません。 あるいはスコトーマもあって 「自分にとっては重要な情報ではない」 という認識をしたのかもしれません。
上の画像のように h, e, a, l, という情報が既に頭の中に断片的に存在してたのに 「重要ではない情報」として その部分だけ認識できなかったのか、その時点での情報量ではhealという全体としての意味を理解できなかったのでしょう。
2つの主な原因
スコトーマの発生する主な原因は2つあるそうで、
・そもそもの情報がない
・重要だと認識していない
という2点だと言われています。
そもそもの情報がない
↓
知識そのものがない
重要だと認識していない
↓
無意味な情報だと認識している
ということです。
主にこの2つの理由から同じ情報を見たり聞いたりしても、
「ああ、それね」 → 認識している
「(スルー)」 → 認識していない
といったようにほかの人には認識できていても、自分にとっては認識できない事象が発生するそうです。 スコトーマのこの状態は小学校低学年の基礎学力が身についていないと中学1年生になって勉強の理解に差がでてしまうといったような、 教育現場で頻繁に起こっている事柄であるような気もします。 家庭環境やこれまでの経験の中でそもそもの知識や情報がインプットできていなかったり自信、自己肯定感などを感じてこれなかったとすれば、その人にとってのその時の情報の価値も変化するのではないでしょうか。
「そもそもの情報がない
「そもそもの情報がない」 については、例えば江戸時代の人にスマホを見せても 「なんじゃこりゃ?」 でしょうし、小学生の頃の自分に 「2ⅹ+5=9」 という問題(記号?)を見せても 「?!」 でしょう。
また細かなところでいうと、
「AはBである」
「BはCである」
「よってAはCである」
↓
「A=C」(OK!)
もし、この 「AはCである」 に結びつくための過程の情報 → 「BはCである」 という情報が自分の中の情報になかったらスコトーマ発生になるのかな?なんてことも考えました。
こんな感じです。
「AはBである」
「よってAはCである」
↓
「A=C ?!」(Why?!)
というような感じで頭の中では 「???」だらけになるのかなぁ、と…。
「重要だと認識していない」
そして2点目の 「重要だと認識していない」 については例えばビリヤードが趣味で球と球のぶつかる音の良し悪しがわかるとします。 そしたらビリヤード屋さんで 「良い球の音!」 というのは認識しやすくなりそうです。 しかしビリヤードに全く興味がなかったら 「ただの衝突音」 でしかない。 「同じ球の音」 でも、その人の情報量と重要度によって受け取る情報は変わると思います。
あるいは音楽が趣味でボーカルを目指しているとします。 そしたら歌手の歌い方に着目しやすくなるでしょうし 「ミドルボイスからのファルセットも上手いなぁ」 などのことに注目しやすくなるでしょう。でもボーカルに全く興味がなかったら 「さすが歌手の人上手いなぁ」 という認識だけでしょう。(たぶん)
ビリヤードのケースと同様に 「同じ歌声」 でも受け取るその人の情報量と重要度によってはその情報の価値は変わるんじゃないかと。 これは 「年収いくらか」 というシビアな部分にも当てはまると目にしたのですがコンフォートゾーンなどの関係上、ここでは割愛します。
このそもそも情報はなかったり、自分にとって重要だと認識していない理由などから 「見えているのに見えていない」 という状態は 見方によっては1つの絵の中にAとBの2つの絵が描かれているのに、Aの絵しか認識できない 「老婆と若い女性のトリックアート」 みたいな感じに近いんじゃないかとも考えました。
若い女性が描かれていると見えた方は若い女性の 「耳」 を老婆の目だと考えて見てみてください。
老婆が描かれていると見えた方は老婆の 「鼻」 を若い女性の横顔のアゴ付近だと考えて見てみてください。
有である1
無である0
1によって浮かび上がる0の絵
0によって浮かび上がる1の絵
もしかするとこの世はこんなだまし絵なのかもしれないと思いました。
「見えているのに見えていない」
真空の中では光を反射する分子等はないため闇です。 しかし塵や分子等の混入によって光は反射されて 「光がある」 と認識できることに何か通じるものがあるんじゃないかと思います。 光は存在しているはずなのに見た目は 「闇」 。
「見えない(認識できない)」
「闇(0)の中に光(1)は在る」
けれど実は気づいていないだけなのかな、なんて。
「ブルータス、お前もか」
で知られる哲学者カエサルの、
「人間は見たい物しか見ない」
という言葉はこれを端的に表現しているんじゃないかと考えています。
この2通りの考え方。
「100」から → 「50」 ?
「 0 」から → 「50」 ?
これについて情報を集めてアウトプットしながら整理していくと、この考え方は 「楽に進むために普遍的に共通した要素を示してくれているのでは?」 と、 実際に取り入れると以前より気楽に進めています。
例えば
- 物事に1歩ふみだす時
- 新しいことにチャレンジする時
- 自分のやりたいことをしたい時
- 生まれた意味をみつけたい時
などのことに対して当てはめて考えてもいいのではないかと思いました。 というのもコップの水の量(50%)を「幸福感や純粋な現在の状況」 に当てはめて考えると 「最悪の最悪の、どん底のどん底の究極のどんづまり状態」 ではなくて本当の意味では0%ではないと思うんです。 命あり、生かされているような気がして。
100%からみると50%しかない
0%からみると50%もある
これを 「自分のしたいこと」 に置き換えて考えてみました。 もし、飽くまでも例えとして私のやりたいことを…
「全てを癒したい=100%」
ことだと仮定すると、
100%= 「全てを癒したい」
半分にも満たないとしても
50%の地点を基準の0地点として100%から考えると今は50%。
100%じゃないので私はそもそもやらないという選択肢を選んでいた。
「やらない」 のでいつまで経っても50%のまま。 気持ちは100%の方向を見ているのに現実は永遠に50%。
その差異(ギャップ)である自分にもんもんと悩む。
という経験をしてきました。
「そりゃできっこないでしょ」
とか、
「そんなのできたら神様だよ」
飽くまでも例えとは言え、そんな意見は至極当然ですから否定もしません。 ただ、これを
100%= 「全てを癒したい」
半分にも満たないとしても
50%の地点を基準の0地点として0%から考えると今は50%。
100%ではないけど、
「あ、0%ではないのか」
「その目的に繋がる方向に進めていれば1%でいいんだ」
と、楽でいることができて50%、51%、52%…と少しずつ増えていく。 そうやって100%の方向へと向かって進めること自体が求めていた100%なのかな、と。 その時その時に全力でありさえすればその時点で100%なのかもしれない。そうだったらいいなと思いました。
当然のことすべてがそんなに順調に進むわけでないことは理解しています。
だけど、
・ 夢
・ 目標
・ やりたいこと
・ 実現したいこと
などの方向に1%でも進めていると実感できること、そのものが楽に生きていけることなのかな?と。
1%であっても全体量の数値が莫大な数字であれば例え1%でもその数値は高くなるはずですので、 夢や目標は大きければ大きいほど日々の中のたった1%でも価値はあるんじゃないかな、なんて考えます。 それに例え小さな目標であっても自分にとっては最高のミッションなのかもしれませんし。 たった1滴の水でもその水という本質部分は同じものです。
- 1%の内訳(1%= )
- ・ 少しの情報収集
- ・ 小さな取り組み
- ・ ぷち行動
私はもともとなんでも 「一気に終わらせたい」 というせっかちな気質な上に、しかも完璧主義でした。 そのせいか100から物事を考えていました。でも今はこう考えると楽に進めています。
もしかしたら未来へと進む 「1」 がなかなか踏み出せなかったのは、ほとんどのことを100から考えてて今の自分は 「50」 なのに 「51」 を飛び越えていきなり50から100の幅を 「1」 としていたから私は踏み出せなかったのかなという気がします。
50から51が正規の1なのに50から55までを1として一気に飛び越えようとしていたり、 50から80、50から100を1としてしんどくなっていたのかもしれません。
100=自分のやりたいことなど
50=今の自分
1=それに繋がる小さな実行
0= 「なにもしない」
こうなってしまってなにもせずに0のままでいるよりも、 「50」 の時点を始めの基準となる 「0」 として考えたら 「1」 でも無駄じゃないですし、その 「1」 を積み重ねることで 「51…52…53…54…55…56… → 100=やりたいこと」 に繋がっていく道を歩めたら。
階段の前で目の前をみたら巨大な1段がそびえ立っていて。 1段ずつ昇っていけばいいだけなのに50から100まで一気に飛び越えようとしていたから 「しんどすぎてそもそもやりたくない」 となっていたのかもしれません。
なぜそもそもやりたくなかったんだろう。 たぶん結果ありきで考えていたからだと思います。 もし全てを癒せるような力をもて “たら” 進む、といったような。
「そうなったら1歩目を踏み出す」
今考えると矛盾だらけ。
卵が先か、ニワトリが先か?でずっと立ち止まったまま。
51も52も飛び越えて100になろうとしていたのかもですね。
完璧から考えて50から100までの 「50」 を 「1」 だと考えてたからその1歩はしんどすぎて。
なんでも 「完成」 = 「100%」 から考えて、その力をもて “たら” 「次」 = 「1」 に進もうとしている自分がいました。 これでは永遠に 「次」 = 「1」 になど進めない。
当てはめるものを変えると、
幸せになる= 「100」 (完成)
その力をもてたら → 「1」 に進む
(踏み出す1歩)
仕事の成功= 「100」 (完成)
その力をもてたら → 「1」 に進む
(踏み出す1歩)
「100」 = 「完成」 から全てを考えていたので小さな小さな1歩は踏み出せずに、何年たっても状況に大きな変化もなく。ハムスターのように同じ所をグルグルと回っていたのだと思います。だから帰納的な1つがほしかったのかな。きっと演繹的な経験をしないと辿り着けないのかもしれないのに。
でも今は100=(ヴィジョン、夢、目標、やりたいことなど)に対して、
「100に繋がる行動なら小さな1歩ずつでいいんだ」
「100に繋がる1をすればそれでいいんだ」
と楽に考えることができて何か不思議な感覚――
心 気持ち 感情
のようなエネルギー?
を感じたことを体験(心験?)しました。
もしかしたら大勢の人はこうして楽に進めているのかも…。
私は結果ばかりを追い求めて正しく情報を受け取っていなかっただけだったのかもしれない…
なんて考えると凹んでしまうので考察を続けます。
0と50と100の3つ
不幸と “今” と幸福の3つ
過去と “今” と未来の3つ
できることは50の地点の“今”を変えることだけ。
100からだと50の未完成な自分。 0からでも50の未完成な自分。 今すぐに100になんてなれない。 永遠に99かもしれない。 だけど0の状態からでも1には進めるし、1から2にも進んでいきたい。 50の状態からでも51には進めるし、52、53、54…と100に近づいていきたい。 その小さな1歩を歩み続けていけるのなら楽なような気がして。
だからといって一方だけが絶対の正解で、もう一方は間違っている、とは考えません。
もし状況などが50、49、48、47、46、45…と目減りしていく要素であれば、100から50の方向を見て対策等を立てることも必要でしょうし、
もし状況などが50、51、52、53、54、55…と加算されていく要素であれば、50から100の方向を見て楽な気持ちで進んでいけるんじゃないかなって思います。
50であること。
それはいつでも“今”かもしれないということ。
真理や真実なんてわからないけれど、命ある今この瞬間に 「どの方向へ進むのか」 の選択ができることに感謝です。
小さな1歩と小さな選択。
かなり昔に読んだ本の一節に強い印象を受けたことがあります。
とある海辺で魚の集団が浜辺に打ち上げられていました。 誰もがその魚の集団を目にしても通り過ぎていく中、ある男性は1匹ずつ魚を海に戻してあげていたそうです。 通り過ぎていく人達が 「そんなことをしても無駄だよ」 というようなことを伝えると、その男性は
「この1匹ぶんの命は無駄じゃない」
と応えたそうです。
この一節に時間だけが止まったような感覚を覚えています。
大海原の海水も1滴の海水も同じ海の水。
量やレベルの差はあれど本質としては同じもの。
きっと無駄なものなんてないのでしょうね。
マイナスの方向への1歩も、
プラスの方向への1歩も、
小さな1歩と小さな選択。
素敵な方向への1歩ならそれは本質としては同じものだから素敵な1歩だと思います。
全てを100からみる視座
全てを0からみる視座
2つの見方はあって
「0から今を見る視座」 も存在するのに見えてなくて。
自分の中に高慢さみたいなものがあったのでしょうか、心のどこかで…。 だから進みにくかったのかもしれないなぁ、って振り返って思います。
0と50と100
たしかに“今”は50。
「50しか」 ともとれるし、
「50も」 ともとれる。
100からの減点探し(-探し)の道を歩むこともできるし、
0からの加点探し(+探し)の道を歩むこともできる。
その時々の選択をすることができるのは“今”この時だからこそ。
これまでは自分に完璧を求めていて、だから 「踏み出せない」 「私はやっぱりだめだ」 と心の奥底では自信もなく。 行動もしないまま完璧を求めては 「できていないこと」 のマイナスばかりを探しては今を生きることができずにしんどくなっていたのかもしれません。
ある人は臆病なだけだったと言います。 ある人は無駄にしたくなかったんだねと言います。 完璧を求めると永遠に探し続けることになるから。 100%はあり得ないのだとしたら悪魔の証明にも似た無限への迷路。 求めれば求めるほど遠ざかるジレンマ。
もしもスコトーマは常に働いていて無意識の領域で影響するのなら…。 「不足」 と 「充足」 の2つの絵の中で 「50 “しか” 」 の反対の 「50 “も” 」 って絵のほうも見つめることのできる自分でありたいです。
無と有
有と無
0と1
1と0
無いものの証明は永遠にできませんけど、有るものの証明はできます。 50から0へ向かって行き着く先は無いものを証明していくための永遠なのでしょうか。 逆に50から100へ向かって行き着く先は… その先には何が待っているのかな。
光は光速であるために時間の経過の影響を受けないので、何十億光年の星の光が地球に届くそうですね。
ブラックホールは超質量のため、同じく時間の経過の影響を受けることなく永遠ともとれる時間の中にあるそうで。
同じ永遠なら有るものを有るとして光のように一瞬一瞬を輝いていけると素敵だな、と思います。
日本の人はみなさんまじめできっちりとされている人が多くて、だからこそ完璧に考えていて…。
生きづらい毎日を送っている人も多いのではないかな、って思います。
もし、まじめだからこそ完璧から考えてしまって過去の私と同じような感じで思うように進めずモヤモヤしたり、楽に進めなくて苦しんでいるとしたら…この考察が少しでも参考になれば幸いです。
100から考えると
「ありがとう」さえ言えなくなりそうで。
今ここに在っていつでも満たされますように
心も楽になる方向へ
とあるココロの楽心目録でした
